Marieさんは、カナダに移民をした日本人のご両親を持ち、バンクーバーで生まれ育ちました。
- 物心がついたとき、自分自身のことを日本人、カナダ人と認識していましたか。
- 自分が正反対の環境にあることに気づいてから、両親との間にどのような葛藤がありましたか。
- お姉さんがいることが、互いの支えとなったのではないですか。
- なぜ、ご両親にとって娘達が同じ言葉を話すことがそこまで重要だったのだと思いますか。
- 現在、二人の娘さんを育てられています。娘さんたちに日本語や文化を学ばせたいと思いますか?
- あなたのキャリアについて教えてください。子育てに専念する以前は何をされていましたか?
- Veldskoen Shoes Canadaについて教えてください。
- 最後に、異文化の中で子育てをしている方達にアドバイスをお願いします。
- 編集者より
物心がついたとき、自分自身のことを日本人、カナダ人と認識していましたか。
幼い頃、家では日本人であるのに、外ではカナダ人であるという感覚から、自分の文化的アイデンティティに苦しみました。家族全員が日本語を話していたし、日本語を学んだり、日本人のナニーさんがたり、日本人の友達とプレイデイトをしたりしていたので、自分は日本人だと感じていました。
文化的アイデンティティの葛藤について教えてください。
幼い頃、自分のアイデンティティが日本人だと感じていましたが、自分の環境を意識し始める年齢になり、周辺の人々が他言語を話していることに気づいた途端そのことに疑問を持ち始めました。学校に行くようになるとすぐに自分が違うことに気づきました。例えば、昼食に持っていくものが違っていたり。当時はまだ日本食レストランがあまりなかったので、おにぎりを持っていくとからかわれたこともあります。すぐに自分がアウトサイダーであることに気づきました。 多くの子供たちがそうするように、私自身もなんとか周囲に溶け込もうと努力しました。
それ以来、自分自身の文化的アイデンティティに悩むようになりました。どちらの文化にも完全に属していないような気がして、自分が何者なのかよくわからなくなりました。特に私の両親は家では日本語を話すことを強制していたため、家の中で「家の外での私」でいることが出来ず悩みは深くなっていきました。
家では他の誰かであるような感覚ですか。
そうではなく、自分のある一面しか見せられないような気がしていました。例えば、日本では、恥をかかないこと、面目を保つこと、敬意を払うこと、礼儀正しいこと、自分の考えを常に言わないことを教えられますよね。日本人と一緒にいるときは、そうするように努力しました。カナダでは、それとは正反対です。自分らしくいよう、自己主張をしよう、声を出そう、積極的に行動しよう、自分から行動しよう、と教えられます。家の中と外で言われることが異なるのでとても混乱しました。
最終的には、私はこの2つの全く異なる世界をベースに、新しい自分を探し、新しいアイデンティティを見つけ出すこととなりました。

自分が正反対の環境にあることに気づいてから、両親との間にどのような葛藤がありましたか。
最初は幼かったので問題はなかったと思いますが、年齢を重ねるにつれ、家の外での自分のアイデンティティが強くなってきました。もちろん、親から離れて同世代の人たちと関わるようになればそうなるのが当然です。小学校の後半くらいから、自分の考え方と両親の考え方があまりにも違うことから、葛藤が顕著化してきたのだと思います。怒って喧嘩したり、泣いたりすることもたくさんありました。
ご両親と理解し合えない、通じ合えないと感じていたのでしょうか。
お互いに理解出来ないというだけでなく、通じ合う方法もがわからなかったのです。どうやって始めればいいのか、通じ合うための言葉さえもわからなかったのです。日本の両親の世代では、自分の感情や気持ち、メンタルヘルスなどについて話しをすることは滅多にありませんよね。私もそういう話は全くしませんでした。また、同世代の人たちとそういった言葉を交わすこともなかったので、そのような会話をする能力もありませんでした。
それは文化的なものだったと思いますか。
文化的な面もあると思いますが(両親は私とそのような関係を築くことを望んでいなかったのだと思います)、伝える語彙力がなかったのも理由だと思います。文字通り、日本語でそういった話しをする能力がありませんでした。両親は、私たちに感情を共有することがなかったので、私は自分自身の感情を言葉で表現することを学んできませんでした。どんな言葉を使ったらいいのかも分からなかったのです。

お姉さんがいることが、互いの支えとなったのではないですか。
そう思うかもしれませんが、姉とは完全に別々の生活を送っていました。私は器械体操に(※Marieさんはオリンピック候補になったこともあります)、姉は学業に没頭していました。姉は私より2歳上なので、私が10年生の時にはバンクーバーを離れてボストンの大学に進学しました。それ以前にも、放課後は、朝から晩まで、体操、スケート、ピアノ、フランス語の家庭教師、音楽理論など、常に何かしらのアクティビティがあったのでお互いに話しをする時間はありませんでした。有難いことに両親は私たちがやりたい事にとても協力的でいてくれたのですが、それは裏を返せば、家族の中での関係を築く時間が作れないという状況を招いてしまいました。
そんな中で他に支えとなる人はいましたか。
なぜこんなに苦しんだかというと、私たちには外に家族がいなかったからだと思います。今でもその影響を受けたからか、夫の家族を自分の家族のように迎え入れてもらっています。家族というものをやたらに欲する傾向があるのはそのためです。今は、日本に行くと、叔父さんや伯母さん、従妹たちに会えるのがとても嬉しいです。大人になってからは、関係をより深めることができました。ただ、子供の頃はそうとはいかず、孤独な時期だったなと思います。
孤独感をどのように克服していったのですか。転機は何だったのでしょうか。
しばらくして、私は家族の期待に背を向けました。友人との関係、そして最終的には彼氏との関係に安らぎを見出しました。どちらの文化に属したいかを選択しなければならなかったとき、それは家族に背を向け、友人や仲間、上司や先生にもっと頼らなければならないことを意味していたような気がします。自分のアイデンティティを見つけるためには、日本の価値観よりもカナダの価値観を大切にしなければなりませんでした。カナダ人を選んだことで、日本人の娘役を演じることは出来なくなり、両親が望むような娘ではなくなりました。とても辛かったけれど、私は自分自身であることを選択しました。

なぜ、ご両親にとって娘達が同じ言葉を話すことがそこまで重要だったのだと思いますか。
私の両親は、私たち娘の中に日本の文化を維持しようとかなりの努力をしました。きっと両親も寂しい思いをしていたのだと思います。カナダに家族のいない両親にとっては、私たちが日本とのつながりであり、私たちは母国語で話しができる家族だったのです。そうすることで、私たちとの関係を維持することができると考えたのだと思います。

現在、二人の娘さんを育てられています。娘さんたちに日本語や文化を学ばせたいと思いますか?
最初は迷っていましたが、長女には日本語を学ばせることを決めてからは、本格的に取り組みました。日本語を学ぶ上で私が感じたことは、言葉を学ぶとはオール・オア・ナッシングなんです。読み書きを含め全てを学ぶか、諦めるか。そうでなければ長続きしないからです。読み書きを習わないと、本や記事を読めず表現力が無くなるため、きちんと自分を表現することが出来なくなってしまうからです。
娘さんたちの日本語の学習について教えてください。
始めたばかりの頃は悩んでいましたし、どうしたらいいのかわかりませんでした。日本語は間違いなく私の文化の一部で、それを娘と共有したいと思っていました。でもそれが娘との関係に悪影響を及ばせていることに気づきました。娘は日本語を話したがらなくなり、日本の音楽教室にも行きたがらなくなりました。そして、それが原因で喧嘩をするようになりました。問題を長引かせたくなかったので、すべてを辞める決断をしました。
その決断後何か変化はありましたか。
とても心が穏やかになりました。最初の頃は、もったいないかなと思ったこともありました。娘は4歳か5歳まで流暢に日本語で話していました。私の両親にも日本語で話しかけていましたし、両親も娘とのつながりがあるので喜んでいたように思います。ある意味では、私も両親を喜ばせるためにやったような気がします。ただ、娘が惨めな思いをしていること、私も惨めな思いをしていることに気づきました。精神的に良くないと思い諦めました。今でも時々、彼女に日本語で話しかけて、何となくわかるようにしています。でも、娘たちが日本語を話さなくても、私は構わないです。
トライしてみてどうでしたか。
諦めるまでには時間がかかりました。両親が娘と日本語で話せることを喜んでいるのは知っていましたが、そこまで全力を注ぐ力が私にはありませんでした。また、娘が幼稚園に入園した途端、それっきりになってしまいました。そしてこのところCOVIDで、日本に帰ることができていません。日本との繋がりがない娘たちにとって、学びたいという想いも必要性もないのです。私はそれでいいと思います。カナダ人を育てているのですから。言葉でつながりがなくなるのは残念ですが、他にもつながりを持つ方法はあります。私にはそれで十分です。

あなたのキャリアについて教えてください。子育てに専念する以前は何をされていましたか?
2005年に独立して、メディア制作の仕事を始めました。自動車の音声認識システムのためのボイスサンプルを集める仕事です。基本的には日本のデンソーという会社で仕事をしていたのですが、そこで日本語をたくさん使っていたので言葉が役に立ちました。両親が私に日本語を学ばせてくれたことに感謝しています。特にバンクーバーは比較的小さな町なので国際的なビジネスの機会があま無い中で、日本と直接仕事ができたり、面白い仕事ができたりしたのは間違いないと思います。
お子さんが生まれたとき、仕事を辞めることを選んだ理由を教えてください。
殆どの友人とは違い、仕事を辞めて子育てに専念することを選びました。そう出来るラッキーな環境にあったのもありますが、子供と感情的に通じ合うためにも子供たちと一緒にいる親であることが私にとって大切だと思ったからです。そこに日本の影響(専業主婦になること)が出たのは面白いです。子育てはとても大変ですが、この選択をして良かったと思っています。子供たちのことで色々な経験をした後で思ったことですが、ほとんど自分自身と自分の癒しのためにそうしたのだなと感じました。また、早くから自分のキャリアに集中しやりきったと感じていたのでことも理由の一つです。
Veldskoen Shoes Canadaについて教えてください。
私は夫と最近、Veldskoen Shoes Canadaを起ち上げました。南アフリカが発祥の靴です。廃棄物として処理される革の副産物を利用したハンドメイドの革靴です。南アフリカのダーバンでエシカルに作られています。この靴は世界中で販売されていて、とても人気があるのでカナダで販売したいと思い始めました。現在はEコマース中心で販売していますが、Lower Mainland(バンクーバー周辺)のいくつかのブティックでも販売しています。今後はさらに拡大していきたいと考えています。




ウェブサイトはこちら https://veldskoenshoes.ca/
インスタグラムはこちら Veldskoen Shoes Canada
今後のプランについて教えてください。
子供たちが2人とも学校に通うようになったら、何らかの形で仕事に復帰したいと思っています。子供たちには、私が働いている姿を見せることが大切だと思っていますし、女性は両立できるということを知ってもらいたいと思っています。そして、いつか自分もそうしたいと思うようになってほしいです。
最後に、異文化の中で子育てをしている方達にアドバイスをお願いします。
オープンであることが大切です。もし私の両親が、カナダの文化を受け入れることによりオープンであったら今の私たちはもっと仲良くなっていたかもしれません。大人になった今なら、両親はその方法が分からなかったのだと分かります。ただ、両親は私と姉が日本人であることを強く望んでいたと思うので、それを手放すのは難しかったのだろうと思います。
カナダの文化をもう少し受け入れなければいけないけれど、自分がその文化で育ってきていないので難しい部分でもあります。羞恥心は忘れてください。日本では誰もが、恥をかくことや弱さを見せること、何かおかしなことをすることを恐れているような気がします。
言語のことを考える前に、まず子供の感情や精神面の健康を優先しなければならないとつくづく思います。英語でもフランス語でも日本語でも、本当の意味でお互いのことが見えていて、制限なく、完全に正直に分かち合える関係であれば繋がりは生まれます。それは、日本人の親の中にはそんな関係を子供に望んでいない方もいらっしゃるかもしれませんが、カナダ人の子供としてはそんな関係をあなたに必ず望んでくるはずです。
私の両親は、私たちを傷つかないように、失敗しないように守ろうとしました。そうすると、学べません。学ばなければ、依存します。私の友人の場合、失敗してもご両親が感情を受け止めてくれていたように感じます。失敗して傷ついても、両親が受け止めてくれる。それが親の役割であり、子供を守ることではないと私は思っています。守るのではなく、どんな困難も乗り越えられるように、失敗したときにそこにいる存在であることだと思います。
最後に、恐れではなく、愛に基づいて決断をして欲しいです。私の両親の場合は、愛と恐れの両方から導いてくれました。恐れは私を傷つけましたが、愛は私を救ってくれました。
ありがとうございました。
編集者より
Marieさんは、私が今まで出会った中で一番バイリンガルな日系カナダ人です。バイリンガルというと言葉に重点を置きがちですが、私の考えるバイリンガルとは言葉だけではなく、双方の文化的知識と理解を持っていることも意味しています。
同じく日本から移民していて子育てをしている身としては、日本人というバックグラウンドを忘れないで欲しい、日本と繋がりを持っていて欲しいというご両親の願いや、同じ言葉を話さないと子供たちとコミュニケーションが取れなくなるのではないか、お互いに理解できなくなるのではないかという不安に共感できる部分があります。
お互いをつなぐツールは言語だけではありません。日本を訪れて実際に色々体験してみること、食べ物、アニメ、音楽、ゲームなど言葉ではない物で文化を感じることも関心を生み出し、関係性を築くツールの一つになるのだと感じました。今回の対談では、言語を学ぶことは有用ではあるけれども、心で通じ合う関係性を築くことが何よりも大切なのだということを改めて学ばせてもらいました。